海外で日本語を教えています

日本語教師です。ネイティブスピーカーとしてだけでなく、色んな角度から日本語を見ていきたいと思っています。

私の考える、語学を勉強する意味。自動翻訳機が進化しても、語学学習の意義はなくならない!

Googleの自動翻訳アプリ「リアルタイムカメラ翻訳」なんてのも最近出たらしい。翻訳機器の進歩も日進月歩なので、語学の勉強しても意味ないんじゃない?と思う人も少なくないようだ。

私も一瞬「語学学習に未来はあるのかな」と心配したけれど、今はやっぱり語学学習に意味はあると思っている。

ある言語をコミュニケーションの道具として使いたい場合は翻訳機にじゃんじゃん頼ればいいと思うけれど、語学を学ぶことそのものが目的の場合の人だって、きっと少なくないはずだ。言語を学ぶことによってしか得られないことは、絶対にあると思う

私達は、自分の使っている言語の枠組みの中で思考し、発言し、言葉を紡いでいる。だいたいの日本人なら日本語で、フランス人ならフランス語でといったように。

私たちは自由に発言しているようで、実は日本語という制約の中で言語活動しているに過ぎない。日本語しか知らない場合、日本語の枠組み以外を知らずに生きていくことになる。

でも外国語を勉強すれば、日本語以外の思考の枠組みに触れることができるのだ。それによって、それまで無自覚に使用していた日本語という枠組みを、客観的に眺めることができるようになる。

中高で英語を勉強したとき、日本語とまったく異なる捉え方をしていることに大きな衝撃を受け、直訳できない言葉もたくさんあることに驚いた。

英語、そしてフランス語を学んでいくうちに、両者に比べて日本語はとても主観的で、人間関係のあり方に大きな影響を及ぼす言語だということに気がついた。

例えば、敬語なんてものはフランス語や英語にはない。日本語話者同士の場合、年上の人には丁寧語を使わなければならないので、なかなか気軽に話せる友達にはなれない(先輩・後輩の域を抜け出せない)。でもフランスでは一回り以上離れた相手でもある程度親しくなれば友達言葉で話せるので、距離を感じることはない。このように、人間関係は話す言語によって殆ど規定されていると言っても過言ではないだろう。

言語が変われば、思考の枠組み自体が変わる。それまで年収100万円だった人が、年収1000万円になったら世界が違って見えるように。

自分の常識だと思っていたことに揺さぶりをかけ、今まで知らなかった新たな物の見方を獲得し、思考の枠組みをぐぐっと大きく広げる―。外国語学習の醍醐味って、この部分にあるんじゃないだろうか。

アプリでちゃちゃっと翻訳するだけじゃ、はっきり言って何も見えてこないと思う。厳密に言えば、直訳できる言葉なんて一つもないと思うから。言葉の持つ意味は、言語によって微妙に違う。例えば英語でsheepは生きている羊で、muttonは食肉の羊だ。日本語の一人称である「私」「僕」「俺」も、英語では「I」の一種類のみだ。そういう言葉の持つ奥深さは、語学を学ぶことによってしか知ることができないと思う。

「外国語は通じれば結構」という道具的動機付けの人が外国語学習から手を引いていって、「語学学習そのものが目的」という人だけが残れば、教える側としても都合が良いんじゃないかなと思う。日本語の背景にある日本人の考え方や文化について興味を持ってくれる人が多そうなので、授業内容も密度が濃いものになるだろうから。

外国語を勉強すればその国の人の考え方も少しは理解できるようになるから、実は世界平和にも貢献するんじゃないかな、とも思います。