海外で日本語を教えています

日本語教師です。ネイティブスピーカーとしてだけでなく、色んな角度から日本語を見ていきたいと思っています。

日本語は多くを語らず

日本語は高コンテクストな言語だそう。高コンテクストというのはつまり、文脈に依っている言語ということ。だから、なるべく必要最低限な情報しか言葉にしない。英語やフランス語のように、いちいち「私は」と毎回主語を言わない。「すみません」という言葉も、文脈によって謝罪だったり、呼びかけだったり、あるいは感謝の意を伝える言葉にもなりうる。

こういったところが日本語の曖昧さと言われるのかもしれないけれど、私はこの日本語の特質が好きだ。俳句も、たった五七五だけで作品の世界を創っている。俳句を英訳や仏訳すると言葉が多くなり、原文の無駄のないすっきりした感じがまったく出なくなってしまう。

 

西洋の言語、とりわけゲルマン語族の言語(ドイツ語、デンマーク語、スウェーデン語など)は日本語と反対で低コンテクスト言語だから、文脈に頼らずその一文だけでも通じるように言わないといけない。

「おじさん、いつものね」ではなく、「おじさん、いつも私が頼んでいるザワークラウト一つください」と、きちんと言わなくてはわかってもらえないのだろう。

 

そういえばフランス人の知人に「日本のアニメは「マサル!」みたいに登場人物の名前を叫ぶシーンが多いよね」と言っていた。「マサル!」はときには「お前何すんだよ!」という怒りだったり、「やっぱりお前は俺の親友だな!」と嬉しい気持ちの表れだったりと様々だ。これも、知人に言われてみてはじめて気がついた。

 

「言わなくてもわかりあえる関係」は、日本人の理想といえるかもしれない。佐野洋子さんはエッセイ集『そうはいかない』で、小津安二郎監督の『東京物語』の一場面が晩年の夫婦の理想だと語っていた。熱海の温泉地、海べりの堤防に二人で腰掛け、ただ一緒に海を見ているシーン。昔の日本人だから「愛している」なんて言葉はないけれど、二人は確かに長年培ってきた絆で結ばれている。欧米人のように甘い言葉を言い合ったり手をつないだりしないけれど、お互いをパートナーとして大切に思っている、日本人らしい素敵な関係だ。私もそんな関係を築いていけたらいいな、と密かに思っている。