海外で日本語を教えています

日本語教師です。ネイティブスピーカーとしてだけでなく、色んな角度から日本語を見ていきたいと思っています。

日本の「ウチとソト」。ヨソモノを排除しミウチの結束を高める。

井上ひさしの「私家版 日本語文法」によると、日本人にとっては「相手に合わせての自分定め」が極めて大切らしい。例えば、初めて会う者同士が名刺を交換し、相手の肩書や会社を自分のそれと比較し、どういう態度で接すればいいのかを判断するのだ。相手との距離や関係を細かく示すことが必要なので、日本語には人称代名詞(私とか僕とか君とかおまえとか)が豊富なのだ。

さらに、「相手に合わせての自分定め」が済んだら、次に「相手との共同の縄張りづくり」が必要になる。その場にいる人たちを「ウチ」として受け入れ、それ以外の者を「ソト」として区別するのだ。

よく男同士、女同士だけで集まると「女ってよくわからないよな…」「男ってどうしてああなんだろう…」のように、その場にいない異性について人は語りたがるけど、それもたぶん異性を「ソト」、つまりよそ者として区別して、その場にいる同性同士の結束を高めているのだろう。(余談だけれど、私自身は男女という大きすぎる区分で人を判断するのは困難だと時に思うけれど)

この日本人の特質は、ここぞという時に大きな結束力を生むという長所があるけれど、悪い方に働くと悲惨なことになると思う。例えば「村八分」という言葉があるように、ある者をヨソモノとして排除し、残りの者たちの結びつきを強めるということも起こりうる。特に閉ざされた集団であるほど、そういうことは起きやすいようだ。

これはいじめ問題にも通じるところがある。もちろん世界中でいじめは起こっているが、日本のいじめというのは集団を保つためのスケープゴートを作り出すことが、多くの場合、原因となっているように思えてならない。

そして、集団の中でうまくやっていくために心を摩耗している人(学校や近所づきあいなど)を見ていると、「そこまでその集団のために心を砕かなくても…」と気の毒になる。多くの場合、何らかの形で(例えば卒業や引っ越しなど)そこから離れてしまえば、もう関係は終わってしまうというのに。

このように、「ウチとソト」は日本の美徳にもなりうるけど、時に人はそれに縛られ、苦しむこともあるのだ。心を必要以上にすり減らさないためにも、「ウチ」に雁字搦めになり過ぎず、「ソト」の世界はいつも開けているのだということを意識しておくと良いんじゃないかと思う。

 

また、日本ではまだまだ外国人はヨソモノ扱いを受けているようだ。フランス人の夫と日本に旅行したとき、多くの人からジロジロ見られたり怪しげなおじさんに絡まれたりと、なかなか大変だった。まあ日本は数から見たら圧倒的に外国人が少ないので、仕方ないのかもしれないけれど。夫はあまり気にしない性格だから不満を言うことはなかったけど、気になる人もいるだろうなあと思った。

帰国したときに見た「アメトーク!」のハーフ芸人の回や「youは何しに日本へ?」という番組も、外国人が超マイノリティーな日本ならではの番組だな、と思った。フランスではハーフ(仏語ではメティス)は、ちっとも珍しくないので。

だから私も、フランスではあまり外国人扱いを受けない。フランス人に道を聞かれることもよくある位だ。役所や仕事で相手が容赦なく超早くしゃべってくる場合もあるから、逆にちょっとは外国人扱いしてくれ~!と思うこともあるけど。