海外で日本語を教えています

日本語教師です。ネイティブスピーカーとしてだけでなく、色んな角度から日本語を見ていきたいと思っています。

曲者ネイティブ教師には、ならないように。

私が大学生の時、第二外国語にフランス語を専攻していた。

日本人の先生の文法の授業の他にネイティブの先生のオーラル・コミュニケーションの授業もあったんだけど、ネイティブティーチャーがまず曲者揃いだった。

だいたいフランス語を一年習ったくらいで発音なんか上手になるわけないのに、うまく発音できないと皮肉を言われた。例えば、「メガネが合ってないんじゃない?」とか(そういう皮肉に対してだけは、リスニング力を発揮してしまう)。

だからフランス語のネイティブの先生が正直苦手だった。アメリカやオーストラリア出身の英語の先生はフレンドリーで優しいのに、やっぱりフランス人って嫌味な連中だなと思っていた(ちなみに、唯一優しいネイティブのフランス語の先生は、カナダ人だった)。

今私はフランスで日本語のネイティブ教師として働いているんだけど、威圧的でアイロニックな態度は取らないように注意している。生徒が同じところで何度も間違えると「さっきもやったよね」と言いたくなっちゃうこともあるけど、なるべく我慢している。

世界に言語は数あれど、わざわざ日本語を学びたいと選んでくれたこと自体がありがたいと思うからだ。だからといって生徒に甘すぎるのは良くないと思うけど、勉強させたいときは「北風と太陽」の太陽方式で自分から進んでやらせるようにしたい。

語学の勉強、ましてや日本語の勉強なんてフランス人にとってやらなくてもちっとも構わないものだから、続けるかどうかは本人のモチベーション次第なのだし。

 

 

肉体は精神に等しい?

以前、日本語の生徒に「愛」という日本語のタトゥーをしている人がいた。彼以外にも、首の後ろに「辰」という文字を彫った知人も知っている。

彼らはべつに「その筋の人」ではなく、ごく普通の気のいいお兄さんたちだ。私には、気軽にタトゥーを入れる彼らの気持ちは分かりかねるけれど。だって、自分では読めない文字を自分の体に刻むのって恐ろしくないでしょうか。もしかしたらそれが間違っているかもしれないし、恥ずかしい意味があるかもしれない。

まるでアクセサリーをつけるように、彼らはなんの躊躇もなくタトゥーを入れる。男性だけじゃなく、女性も。鼻や口にピアスをする人も少なくない。

日本ではピアスやタトゥーをしたいと言った時、「親にもらった体を傷つける気か!」と怒られる風潮があるように思う(少し古いかもしれないけれど)。体に手を入れることは、日本ではそれくらい重大な意味を持っているのではないだろうか。

どうして日本だと肉体改造が忌み嫌われるのかというと、それは「体=心」という考え方が根強くあるからなのではないでしょうか。体を傷つけることは、すなわち心を傷つけることに等しいという訳。だから、外道であることを覚悟したアウトサイダーの印でもあった。

方や欧米ではそういう意識が希薄だと思う。大げさに言うと、体と心はそれぞれ独立した存在とみなされているのではないでしょうか。

日本で整形が嫌われるのは、「容姿を変える=心を偽ること」だとみなされるからだと思う。整形がガンガン行われているというお隣の韓国は、むしろ欧米に近い身体感覚なのかもしれない。

私は日本生まれ日本育ちなので、タトゥーもピアスも整形もしたいと思ったことが一度もない。やっぱり、(やや古臭い)日本人の身体感覚なのだ。(別に完璧な容姿じゃないけれど、不完全だからこそ人間なんだと思うし。)

タトゥーを入れているフランスの若者の気持ちはまったくわからないけれど、きっとそういうことなんだろうと頭で理解しようとしています。

 

 

 

 

日本語は多くを語らず

日本語は高コンテクストな言語だそう。高コンテクストというのはつまり、文脈に依っている言語ということ。だから、なるべく必要最低限な情報しか言葉にしない。英語やフランス語のように、いちいち「私は」と毎回主語を言わない。「すみません」という言葉も、文脈によって謝罪だったり、呼びかけだったり、あるいは感謝の意を伝える言葉にもなりうる。

こういったところが日本語の曖昧さと言われるのかもしれないけれど、私はこの日本語の特質が好きだ。俳句も、たった五七五だけで作品の世界を創っている。俳句を英訳や仏訳すると言葉が多くなり、原文の無駄のないすっきりした感じがまったく出なくなってしまう。

 

西洋の言語、とりわけゲルマン語族の言語(ドイツ語、デンマーク語、スウェーデン語など)は日本語と反対で低コンテクスト言語だから、文脈に頼らずその一文だけでも通じるように言わないといけない。

「おじさん、いつものね」ではなく、「おじさん、いつも私が頼んでいるザワークラウト一つください」と、きちんと言わなくてはわかってもらえないのだろう。

 

そういえばフランス人の知人に「日本のアニメは「マサル!」みたいに登場人物の名前を叫ぶシーンが多いよね」と言っていた。「マサル!」はときには「お前何すんだよ!」という怒りだったり、「やっぱりお前は俺の親友だな!」と嬉しい気持ちの表れだったりと様々だ。これも、知人に言われてみてはじめて気がついた。

 

「言わなくてもわかりあえる関係」は、日本人の理想といえるかもしれない。佐野洋子さんはエッセイ集『そうはいかない』で、小津安二郎監督の『東京物語』の一場面が晩年の夫婦の理想だと語っていた。熱海の温泉地、海べりの堤防に二人で腰掛け、ただ一緒に海を見ているシーン。昔の日本人だから「愛している」なんて言葉はないけれど、二人は確かに長年培ってきた絆で結ばれている。欧米人のように甘い言葉を言い合ったり手をつないだりしないけれど、お互いをパートナーとして大切に思っている、日本人らしい素敵な関係だ。私もそんな関係を築いていけたらいいな、と密かに思っている。

 

 

 

 

レッスン計画のメモ

教科書を使うだけの授業じゃ、きっと面白くない。

メアリーさんやスズキさんの話なんて、きっと誰も興味が無いし。

それに、きっと生徒が求めているのは頭の中で日本語を組み立て、アウトプットするレッスンだろう。

もし私が生徒の立場なら、高いお金払っているのにひたすら問題を解くだけだったり、先生の後に続いて発音するだけのレッスンだったら、損した気分になると思う。

それだったら一人でも出来るし。

 

教科書をなぞるだけのレッスンだったら準備もいらないし本当に楽だけど、満足度は落ちるでしょうね。

想像力を働かせて、どうすれば面白くて有益なレッスンができるのか、考えている。

 

今思いついたのは、タブレットや携帯に入っている写真を見せながら「これは~です」の導入をするというもの。

「これは私の犬です」「これは大仏です」とか、実際に自分が撮った写真を見せるのは面白いんじゃないかと思う。それで、逆に生徒にも自分のスマホに入っている写真を紹介してもらう。人は自分の話をするのが基本的に好きだから、自分に関することを日本語で言えたら嬉しいだろうし。

明日試してみよう。

 

 

直接法と間接法、どっちがいいの?私なりに思ったこと

なんとなく(面倒くさくて)このブログを更新していなかったのですが、書きたいことがあったので約一年ぶりくらいにアップしたいと思います。

 

 

先日、日本語既習者の人と話す機会があった。

その人は某日本文化センター的なところで日本語を習っていたそう。

そこでは直接法で授業が行われていたから媒介語による説明が一切なかったそうで、結構困っていたみたい。

確かに、もし私が外国語を勉強するとき、日本語などの媒介語なしに全て理解するのは結構大変だと思う。

私も当初は「直接法の方がいいに決まっている!」と思っていてなるべく日本語だけで導入や説明をするようにしていたんだけど、いまいち理解してくれないことが多かった。

だから、今ではガンガン媒介語を使って説明している。「これでいいのかな?」と不安になったこともあったけれど、私はこれでいいと思っている。

確かに、翻訳の意味がバッチリ合わないことも多々ある。例えば日本語の「ある・あります」は英語の「There is, are」、仏語の「Il y a」と同じ意味で使われるけど、所有の「have」「avoir」という意味としても使える(うちに車があります)。

でも、細かい部分は追々教えて最終的に正しい日本語が使えるようにすればいいわけで、とにかく最初は「だいたいこういう意味ですよ」と理解させることが大切なんじゃないかと思う。その方が学習者も頭の中で整理しやすいと思う。

直接法だけの教え方だと、「おそらくこういう意味・法則なんだろうな」と学習者に考えさせることができるけど、その予測が正しいとは限らない。私のお話した人も、「です」や助詞の「は」の意味をいまいち理解していなくて、ちょっと変な使い方をしていた。

まあ、中級以上なら日本語だけで問題ないと思うけど、初級程度ならやっぱり媒介語はある程度必要だと思う。

 (どう思いますか?)

 

いろいろあるけど、教えるのは楽しい。

フランスの9月は入学シーズンなので、私の学校にも新しい学習者さんが続々(?)入ってきているようだ。どんな新しい出会いがあるのか、ちょっとワクワクしている。

最近は、自分の足りない部分を色々感じて「もっと勉強しないといかんな」と思っていたけれど、まったく成長していない訳でもないようだ。

例えば子供の授業は苦手だったんだけど、段々子供ともうまくコミニュケーションをとれるようになってきた。今でも授業中に集中力が切れてしまう子はいるけど、その子をどうやってこっちの世界に引き戻すのか考えるのは、ゲームっぽくてちょっと面白い。だいたい言葉遊びとかゲームは喜んでやってくれる。幼い子供はアウトローな奴らなので「おいおい!」と言いたくなるときもあるけど、まあ可愛いものだ。今はとにかく、日本語を好きになってもらうことが大切なのだろう。

それと、以前授業中に泣いてしまった生徒さんも、今ではニコニコしながら授業を受けてくれている。彼女を置いてきぼりにしていた授業を改め、いつも彼女がついてきているか確認するように気をつけている。幸い他の生徒さんも協力的で、彼女がつまずいたときなどにヒントを与えたりしてくれる。雰囲気も良くなったと思う。

成長出来た部分は自分自身で認めてあげて、自信につなげたい。

でもやっぱり私はまだまだ未熟者だ。初級の授業はだいたい大丈夫になったけど、中級以上となると不安だらけだ。これから担当する可能性も大いにあるので、今のうちに勉強しておかないと。それから日本語能力検定の対策もできるようにしないと。

課題も山積みだけど、あえて楽天的にかまえて「なんとかなるでしょ」の精神でやっていきたいと思う。悩みも尽きないけど、悩むのは現状を良くしたいという心の表れだとも思うので、なかなか悪くないことじゃないだろうか。

 

そんなことを思った初秋でした。今日は秋晴れで空気もひんやりしていて良い一日だったなあ…(しみじみ)

 

 

 

 

『セッション』を観て思った、教育者のあり方

先日、ようやく昨年のアカデミー賞受賞作の『セッション』を観た。

テレンス・フィッチャー先生がマジ恐い。昨今の「褒めて伸ばす」とは真逆の鬼教師で、生徒が失敗するともの凄い剣幕でものを投げつけて激高するのだけど、その様子がとにかく恐ろしい。

先生役のJ・Kシモンズはさすが助演男優賞を獲っただけある。この人、これまでの人生で本当にこんなふうに毎日怒ってきたんだろうな、と思わせる演技だった。彼のシワも日々の怒りによって刻まれたんじゃないかってくらい。

この映画を観ていて、小学校のクラスで先生に誰かがやり玉に挙げられている時の感じを思い出した。自分じゃなくてよかったという安堵感と、被害者への同情の入り混じった気持ち。

私自身は平和主義者なので怒鳴ったりものを投げつけたりする人は教育者としてどうかなと思ってしまう。『セッション』の先生は「シンバルを投げつけられて何クソ!とますます努力したチャーリー・パーカーのように生徒にもなってほしかった」と弁明していたけど、皆がみんなチャーリー・パーカーになれるわけではない。主人公のアンドリューはチャーリー・パーカーばりに努力して先生の怒号をものともしない信念を持った一人前のミュージシャンになるのだけど(してやったりで超気持ちいい!)。

教育者はどうあるべきなのだろう。生徒のことを思えば時に怒号を飛ばすこともやむを得ないのだろうか?でも最近では怒鳴ると脳が萎縮して逆に頭が悪くなってしまうこともわかっているらしい。やっぱり私はリラックスして学んでほしいと思う。楽しいとか、嬉しいとか、そういったプラスの感情と共に学習してほしい。そっちの方が脳も活性化されるようだし。

でも案外、フィッチャー先生みたいな鬼教師の方が生徒の記憶には残って、数十年後に思い出補正で感謝されちゃったりするんだろうな~。