海外で日本語を教えています

日本語教師です。ネイティブスピーカーとしてだけでなく、色んな角度から日本語を見ていきたいと思っています。

年齢じゃなく、自分のキャラに合ったポジションで。

フランス人の夫は一人っ子なのだが皆のお兄さん的な感じで、よく友達に相談されるタイプだ。今日彼の電話に聞き耳を立てていたら、どうやら10歳年上の友人Jの相談を受けているようだった。Jは仕事がうまくいっていないようで、夫は必死に彼を励ましていた。

日本だと、10歳年下の人に相談するというシチュエーションはあまりないんじゃないだろうか。年齢関係なく親しくなればタメ口になるフランスならではだなと思った。(たぶん英語圏もそうかな)私はこの点は割と気に入っている。

日本だと、年上の場合どうしてもそれらしい振る舞いが期待される。学校や会社では先輩と呼ばれるし。

大学の頃、部活にめちゃくちゃデキる後輩がいた。私なんてヘマしてばっかのダメ先輩だったので後輩に良いところなんて見せていなかったと思うのに、部活引退の時の寄せ書きに「先輩みたいな人に憧れています」みたいなことを書いていて嘘つけと思ったことがある。年齢を考慮しない世界だったら彼女の方が絶対に「先輩格」だし、夫の友人のように困ったことがあったら私も彼女に泣きついていたはずだ。

先輩なのに「先輩キャラ」じゃない人は、後輩に変に気を遣わせてしまうことがあって、結構面倒くさい。ダメ先輩の尻ぬぐいとか勘弁やで。

年齢に関わらず、自分のキャラに合ったポジションで人間関係を構築していけるのは、私には気楽でありがたい。

日本語って面白い。『日本人のための日本語文法入門』の気になったところメモ

日本語学習者の作文を見ていて、「意味は分かるんだけど、何か不自然なんだよなあ」と思うことがよくある。自然な日本語を使えるようになるには、日本人特有の考え方もしっかり学ぶ必要があるんだよな、と本書を読んで改めて思った。

一応日本語教師の勉強をしたので知っていることも多かったけれど、アプローチの仕方が面白いなと思った部分も多々あった。(以下はメモです)

引用はいずれも『日本人のための日本語文法入門』(原沢伊都夫著、講談社現代新書)から。

 

◎「結婚することになりました」→自分たちで決めたことなのに、日本語ではあたかも自然にそうなったような言い方をする。

「お風呂が沸きました」や「掃除が終わりました」「ご飯ができました」など、自分でやったことでも、すべて自然のなかの出来事のように表現するのが日本語の大きな特徴なんですね。

 ・欧米の言語は人間中心だが、日本語は自然中心!

 

◎関節受け身:その出来事全体によって影響を受ける人を主役にする。

例えば… 私は母に日記を読まれた。

     (私は)隣の人に大声で話された。

このような「迷惑の受け身」は日本語独特。欧米の言語はもっと客観的で、「母が日記を読んだ」「隣の人が大声で話していた」のように表現し、主語は「出来事に影響を受ける人」にはならない。

「~てあげる」「~てもらう」「~てくれる」という感謝のニュアンスのある表現も日本語特有で、外国人にはなかなか使いこなせない。

小さな島国でほぼ同じ民族しか住んでいない日本では「和を尊重する」ことがとても重要なんですね。(中略)他人との交流は、必然的に思いやりのやりとりとしてとらえるようになったわけです。日本人の人間関係では「相手にしてあげる」「相手がしてくれる」「相手からしてもらう」という、相手をいたわり、感謝する気持ちが重要になるんですね。

エストニア出身の把瑠都関が初優勝したとき、お母さんに対して「私を生んで、ありがとう」とインタビューで語ったらしいけれど、日本人ならそこは「私を生んでくれて」になるよね、というエピソードも。どんなに日本語が流暢でも、「やりもらい動詞」の使い方は難しい。

 

◎~ている

自動詞+~ている(変化が継続していること・状態を表す)

例 窓が開いている。

他動詞+~ている(動作の進行)

例 窓を開けている。

 

~ている(状態) と ~てある の違い

(自動詞)+ ~ている:「窓が開いている」「電気がついている」

「~ている」はただ単にある変化が継続していることを表していて、人間の関与に関しては不問なのです。

(他動詞)+ ~てある:「窓が開けてある」「電気がつけてある」

人間の関与を感じさせる状況を表すのに適しているんですね。

 

 そう言われてみれば確かに、推理小説の現場の描写なんかでは「~てある」がよく使われているような気がする。

自然にそのようになっているのか、人為的にそのようになっているのか、という観点から区別しているからです。

 

「が」と「は」は英語の「the」と「a」に対応している!

私が一番「なるほどな~!」と思った箇所です。

 

One upon a time, an old man and an old woman lived in a small village. One day the old man went to the mountain to gather firewood and the old woman went to the river to wash clothes.

(Momotaro, the peach boy)

 むかしむかし、ある村におじいさんとおばあさん住んでいました。ある日、おじいさん山へ柴刈りに、おばあさん川へ洗濯に、行きました。

 

・「が」:不定冠詞anに対応。新出の情報に付く。

・「は」:定冠詞theに対応。既出の情報に付く。

「が」は単純に主語を表し、「は」はその文の中の主題を表すという説明では、なかなか生徒たちに理解してもらえないことが多い。この『桃太郎』の文を引き合いに出せば生徒たちの理解が深まるかもしれない。こういったアプローチ法は初めて見たので、とても参考になった。

 

 

 

空(くう)のこと・人間社会に疲れたら「花鳥風月」 

今回は、最近思ったことを書きたいと思います。

その1「空(くう)」っていいな

フランス社会に身を置いていると兎に角自己主張が求められるので、そういう習慣のない日本から来た私はしばしば「面倒やな」と思うことがある。

フランス人は「我喋る、我に我あり」な人々だから、「わたしわたし」「オレオレ」と常に自分の喋るターンを奪い合っているようなのだ。

「言葉を発さなければその場にいないのと同じ」みたいな感じがして、口数がそもそも多くないしフランス語ネイティブでもない私にはしんどい時もある。

西洋流に自我で自分をいっぱいするのではなく、何もない空(くう)で自分を満たす仏教の思想はいいなと最近思っている。「わたしがオレがワシがあたいが」と自我を主張するのではなく、一旦空っぽにしてすべてを受け入れるしなやかさに憧れる。

仏教の影響を色濃く受けた日本人は、そのしなやかさがあるように思う。言葉がなくても行間を読んだり、空白に意味を見出したりできる稀有な民族ではないだろうか。

その2 人間社会がすべてじゃない。花鳥風月と共に生きよう

これは、養老孟司さんがラジオでそうおっしゃっていた。

現代人が生きにくさを感じているのは、人間社会が世界のすべてになってしまっているから。自然が豊かにあった時代は、人間社会で嫌なことがあっても自然の世界に逃げ込むことができた。

人間社会の秩序とは、まったく違った秩序を持っている自然。自身や台風、洪水、噴火など災いを及ぼすこともあるけれど、つきあい方がわかれば人間よりずっと気楽につきあえる。人間は裏切ったり嘘をついたりするけれど、自然はそうじゃない。

戦中は「天皇万歳!」だったのに、戦争に負けてアメリカに占領されると「マッカーサー万歳!」と手のひらを返したようになる世の中を見て、心の底では人間社会が信じられなくなったという養老さん。そりゃあ、人間社会から自然の方へ逃れたくなる気持ちもわかるなあ。

 

そういえば最近、田舎の夫の知人の家に遊びに行く機会があった。まあ、フランスでは都市の周辺以外はだいたい田舎なんだけどね。私は初対面だったけれど、ぜひ奥さんもと誘ってくれたらしい。

家には広い庭があり、小鳥やうさぎ、キツネなど野生動物もやってくる。庭にはニワトリが放たれ、コッコッコッと草をついばんでいる(可愛い)。小さなポタジエ(野菜畑)なんかもあり、色んな野菜が植わっている。

知人夫婦は教師をしており、本をたくさん読んでいるおかげで知識も豊富だった。日本の文化にも興味を持っている。豊かな自然と収穫の喜びと磨かれた知性、そして子供たち。絵に描いたような理想的な暮らしを目の当たりにして、何だか幸せな気持ちになれた。心身ともに幸せに生きていくには、それだけがあればいい。花鳥風月のある暮らしってこういうことなんだろうなと、養老さんの話を聴いて思った。

人間社会に押しつぶされそうになったら、ぜひ積極的に自然に現実逃避したいものだ。

 

 

 

 

 

私の考える、語学を勉強する意味。自動翻訳機が進化しても、語学学習の意義はなくならない!

Googleの自動翻訳アプリ「リアルタイムカメラ翻訳」なんてのも最近出たらしい。翻訳機器の進歩も日進月歩なので、語学の勉強しても意味ないんじゃない?と思う人も少なくないようだ。

私も一瞬「語学学習に未来はあるのかな」と心配したけれど、今はやっぱり語学学習に意味はあると思っている。

ある言語をコミュニケーションの道具として使いたい場合は翻訳機にじゃんじゃん頼ればいいと思うけれど、語学を学ぶことそのものが目的の場合の人だって、きっと少なくないはずだ。言語を学ぶことによってしか得られないことは、絶対にあると思う

私達は、自分の使っている言語の枠組みの中で思考し、発言し、言葉を紡いでいる。だいたいの日本人なら日本語で、フランス人ならフランス語でといったように。

私たちは自由に発言しているようで、実は日本語という制約の中で言語活動しているに過ぎない。日本語しか知らない場合、日本語の枠組み以外を知らずに生きていくことになる。

でも外国語を勉強すれば、日本語以外の思考の枠組みに触れることができるのだ。それによって、それまで無自覚に使用していた日本語という枠組みを、客観的に眺めることができるようになる。

中高で英語を勉強したとき、日本語とまったく異なる捉え方をしていることに大きな衝撃を受け、直訳できない言葉もたくさんあることに驚いた。

英語、そしてフランス語を学んでいくうちに、両者に比べて日本語はとても主観的で、人間関係のあり方に大きな影響を及ぼす言語だということに気がついた。

例えば、敬語なんてものはフランス語や英語にはない。日本語話者同士の場合、年上の人には丁寧語を使わなければならないので、なかなか気軽に話せる友達にはなれない(先輩・後輩の域を抜け出せない)。でもフランスでは一回り以上離れた相手でもある程度親しくなれば友達言葉で話せるので、距離を感じることはない。このように、人間関係は話す言語によって殆ど規定されていると言っても過言ではないだろう。

言語が変われば、思考の枠組み自体が変わる。それまで年収100万円だった人が、年収1000万円になったら世界が違って見えるように。

自分の常識だと思っていたことに揺さぶりをかけ、今まで知らなかった新たな物の見方を獲得し、思考の枠組みをぐぐっと大きく広げる―。外国語学習の醍醐味って、この部分にあるんじゃないだろうか。

アプリでちゃちゃっと翻訳するだけじゃ、はっきり言って何も見えてこないと思う。厳密に言えば、直訳できる言葉なんて一つもないと思うから。言葉の持つ意味は、言語によって微妙に違う。例えば英語でsheepは生きている羊で、muttonは食肉の羊だ。日本語の一人称である「私」「僕」「俺」も、英語では「I」の一種類のみだ。そういう言葉の持つ奥深さは、語学を学ぶことによってしか知ることができないと思う。

「外国語は通じれば結構」という道具的動機付けの人が外国語学習から手を引いていって、「語学学習そのものが目的」という人だけが残れば、教える側としても都合が良いんじゃないかなと思う。日本語の背景にある日本人の考え方や文化について興味を持ってくれる人が多そうなので、授業内容も密度が濃いものになるだろうから。

外国語を勉強すればその国の人の考え方も少しは理解できるようになるから、実は世界平和にも貢献するんじゃないかな、とも思います。

語学学習には目標がないと、ただただ辛いよ。

フランス暮らしも長くなってきたので、最近駅で流れるアナウンスが全部理解できるようになったことに気がついた。

一語もわからない言葉がなく、まるで母語のようにすっきり理解できたのだ。

とはいえ、言葉の壁がまったくなくなったわけではない。

先日夫の友人たちと推理ゲームをしたのだが、結構わからない言葉や表現があってついていけなかった(泣)。結局ゲームから降りて、プレイしている様子を眺めていました。

でもその時に初めて知った言葉もいくつかあったので、まあ勉強にはなったから良かった(と思うことにしている)。以下単語のメモなので、仏語を勉強している人は参考にしてみてください。

feuilleter(フィユテ)はページを繰る、ざっと読むという意味しか知らなかったのだが、新たに「よく調べる」という意味があることを知った。

paireとimpaireは、それぞれ偶数・奇数という意味らしい。「ペアにできる数とできない数」ということなので、合理的だ。

 それで、今回は何が言いたいのかというと、表題のように「語学学習には目標がないと、ただただ辛いよ」ということです。

なぜなら、語学学習には終わりがないから。頭の良いネイティブ並みになるのは、相当大変な訳です。

だから、

「海外旅行で困らないくらいの語学力がほしい」

「ビジネスで活かしたい」

とか、はっきりした目標がないと終わりが見えず、結構途中でしんどくなります。

私の今は、ただ漠然と「会話力・表現力をあげたい」と思っているだけなので、達成感もなくただ「自分ってまだまだだな」という焦燥感・劣等感ばかり抱いてしまっている。

フランス語を学び始めた当初は「とりあえず初級レベルのフランス語が読めるようになる」という目標があったから、洋菓子屋さんの紙袋に書いてあるフランス語が理解できただけでも、相当感激したというのに。

ある程度達成感がないと、語学学習はただ辛いだけの苦行になるよなあ。

 

やっぱりフランスで生きていく以上、もっと語学力をアップさせたいから、新しい目標を立てようと思う。

「好きな小説を一冊読み切る」という目標にしようかな。

とにかく一冊読み切れば、それなりの達成感も得られそうだし、表現力や語彙力もつきそう。

 

 

これから外国語を勉強しようと思っている人は、ぜひ最初にしっかり目標を立ててほしいと思う。

小さな目標を立てていけば達成感もたくさん味わうことができるから、長続きできるんじゃないでしょうか。

 

 

 

漢字かっけえ!と役所で言われた件

先日、役所に提出する書類に漢字でサインしたら、係の人に「スゴイ!カッコイイ!」と言われた。役所でそんな反応されると思わなかったから、拍子抜けした。

彼女は「ねえねえ見て!クールじゃない?」と隣にいた同僚に私のサインを見せていた。いや、小学生じゃないんだから!

フランス人が「漢字かっけえ」という感覚は、西洋人がサラサラ流れるような筆記体で書いちゃうのを見て「かっけえ!」と思うのと同じなんだろうな。

漢字が書けることを、少し誇らしく思った一日だった。

 

 

 

 

幸せになれない日本人?

今年の国際連合の世界幸福度調査報告によると、日本は53位だという。

経済的にも豊かで食べ物もおいしく、自然も綺麗だし文化的にも発展しているし、戦争や紛争もないし、充分幸せになれる条件があるように思うけど、そんなに幸福度は高くない。ブラック企業やワーキングプア、少子高齢化など、社会的な問題もたくさん抱えているからだろうか。

でもそういった社会問題のせいだけじゃなくて、日本人自身の特質も関係があるんじゃないかな、と最近思っている。大和民族はとにかく他と比べて、心配性で考え過ぎてしまう傾向があるんじゃなかろうか。私自身が典型的な気苦労の多い日本人だからっていうのもあるけど。

私の配偶者及び義理の家族は外国人なんだけど、うちの家族よりずっとオプティミストだ。特に私のパートナーは日本人離れした楽天家だ。過ぎてしまったことに全然くよくよしないし、嫌なことがあっても次の瞬間には笑っている。その驚異的な楽天家ぶりに、私は惚れてしまったのである。彼は、私にはないものを持っているから。こんなカラッとした性格の人間がいただなんて!ちょっとしたことでうじうじ悩み、いつまでも考えてしまう自分と比べると、月とスッポンだ。

たぶん人が幸せになれないのは、環境のせいも勿論あるだろうけど、考えすぎてしまうからというのもあると思う。心配性で細やかな部分は日本人の長所でもあるけど、幸せになるにはそれが障害になってしまうのかもしれない。

また、向上心があるのはいいことだけど、今の自分を肯定できないのは考えものだ。できなくてもうまくいかなくても、まあ頑張ったんだからいいじゃない。「向上心のない奴は馬鹿だ」と自分を追い詰めすぎてしまうくらいなら、バカでもいいと思う。

この世に生まれたことだけでも十分凄い。美味しいもの食べて心を許せる人と笑いあえるだけで、十分幸せじゃなかろうか。私も彼のように、楽天的に楽しく生きていきたい。